報われずとも幸せですか  




袁煕様の妻である甄姉様と私は、曹操が攻めてきたと聞いて、肩を寄せ合って恐怖に耐えることしかできなかった。いつもは優しく私達の世話をしてくれる女官たちも、恐ろしい形相で慣れない刃物を握っている。私達を囲うように並んだ彼女達の肩は、やはり震えていた。

「…私達は曹操様に降ります。無意味な抵抗をして、命を散らすことはないのですよ」

近づいてくる足音、叫び声。ますます震えが大きくなる女官達が憐れで、私は思わず言葉を投げかけた。その声は恐怖に負けていて、掠れて聞き取り難かった。けれど、皆にはちゃんと届いたようだ。隣で、甄姉様も頷いている。

「あ、諦めてはなりませぬっっ。そう簡単に、この城が落ちるはずがありません!!」
「いいえ。…水攻めで殆どの兵が餓死したと聞きます。例え袁尚様が救援に来てくださったとしても、兵の数では到底魏軍には及びません。生きるために何をすべきか、選択肢はないのです」

皆も早く、覚悟を決めるのです。命を粗末にしてはいけません。
鼻を啜る音と嗚咽が部屋に広がる。からんと刃物は次々に床に落ちる。私は、甄姉様と抱き合った。
足音はもうすぐ近く。部屋の前に居た護衛兵が声を上げる。そして。

乱暴に開けられた扉の向こうに見えたのは、冷たい表情をした男。まだ若く、城に篭りきりで世間を知らない私にも、その男が曹操でないと分かった。男の得物から血が滴り落ちた。女官はひっと息を飲んだが、私は何故かその男から目を離せなかった。なんということだろう、血生臭い戦場で、命が危ういかも知れないこの状況で。私はその男に心を奪われてしまった。

「ふん、傾国の美女というのは偽りではなかったようだな。」

彼の鎧がぶつかる金属音にぞくりとする。私の視線を捉えて離さないその人が、一歩、また一歩と近づいてくる。敗将の妻として、私はこの男の物になるのだ。緊張と高揚で震える手を必死で落ち着かせる。


「後の者の処遇は父に任せる。おい、道を開けろ。」


ふわりと浮いた姉様の着物が私の頬に擦れる。隣にあった温もりが消えた。男に抱きかかえられ、去っていく甄姉様。羞恥のあまりサッと顔に朱が走る。

彼は、姉様を選んだ。

様・・・っ」
「そんな声を出さないで、大丈夫です、覚悟は出来ていると言ったでしょう」

微笑んだつもりだったが、それを見た女官達の表情が歪んだ。うまく、笑えなかったんだろうと思う。
再び部屋の前が騒がしくなり、私達は身を寄せて小さくなった。


「何っ!?曹丕が来ただとっ!?」


またも、乱暴に開かれた戸。おそらく、この人が曹操だろう。威風堂々とした出で立ちだった。

「申し訳ありませんっ、お、お止めしたのですが・・・甄姫様を連れ出されて、後の者の処遇は父に任すと・・・」
「曹丕め・・・このわしを出し抜くとは・・・」

低く呟いた曹操と、目が合った。私は驚いて思わず顔を背けてしまったが、歩み寄ってきた曹操の手が伸びてきて無理矢理顔を向けさせられた。肉刺がある角張った手が、両頬に当てられている。

「ふむ・・・・・・曹丕の残り物だというのが気に入らんが・・・顔は悪くない。」

連れ出せ、と曹操様が命令する。次の瞬間には体が宙に浮いていた。 前に見える曹操様の背中。曹丕様に直接抱かれて出て行った姉様には、何もかも適わない。悔しさと、命が助かった安心感に涙が零れた。涙が引き金となって、張り詰めていた緊張が一気に解けてしまったようだ。私は意識を手放した。


△▽


魏に降って数ヶ月。曹操様は足繁く私の元へ通って下さっている。蒼い着物に身を包み、何のも自由もなく、袁煕様の妻であった頃のように侵略に怯えることもない暮らし。
けれど、何か、満たされない。

ふと、庭に目を遣れば、仲睦まじく会話している甄姉様と曹丕様。 袁煕様の元では平等な扱いだったのに、姉様は正式に曹丕様の妻に迎えられ、一方私は曹操様の一妾。 劣等感に埋もれてしまいそうになる。

「…羨ましい」

私に甄姉様のような美しさがあれば、劣等感に苛まれることもなかった。曹操様は、本当に私で満足して下さっている だろうか。

「曹丕らを見て羨ましいとは何故に。わしはに不自由をさせておるか」
「!」


突然の声に驚いて振り返ると、意地悪く笑みを浮かべた曹操様が居て、私は慌てて姿勢を正した。

「い、いえ…曹操様にはよくして頂いております。不自由などと、とんでもございませんっ」
「ほう、ならば理由を申してみよ」

歩み寄り、私の隣に座る曹操様。その手が、私の髪を優しく撫でる。

「…わ、私の我が儘なのです。曹操様には良くして頂いておりますが、甄姉様を見ていると、申し訳なくなるのです。怖くなるのです、」

私を残り物だと仰ったのですから、曹操様も本当は私などより甄姉様を側室に迎えたかったのでは。と、何とも皮肉が篭った言葉が続けて飛び出そうとしたのを、慌てて抑えた。

「ぬ…わしがそなたを選んだのだ。そなたが甄に劣るはずはなかろう」
「先に曹丕様が姉様を連れ出したのです。曹操様は残った私を取る以外に選択肢はないではありませんか」
「捨て置くことも出来たが」
「それはそうですけれど…」

ですが、それは…と歯切れの悪い私を、曹操様が笑う。

よ、わしを誰だと思うておる。その気になれば、息子から嫁を奪うことなど容易いことよ」
そう、耳元で呟かれて。頬に一気に朱が走った。

「そ、それは…曹操様がご自分の意思で私を選んでくださったと、そう思っても良いのですか」

答えを期待していたが、曹操様は意地悪く笑みを浮かべるばかり。 やっと口を開いたと思ったら「さて、」と質問の答えでも何でもない言葉。その言葉と同時に、私は曹操様に抱き上げられる。

「えっ」

寝かされたのは寝台。まだ陽も高いのに…と困惑する。


、わしはこうしてそなたの元に頻繁に通っておるではないか。これでは質問の答えになり得ぬか。」


本日2度目の赤面。曹操様は帯を解きながら、満足そうに笑っていた。
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