その穴ははたして深かったのか
結婚とはゴールなのかスタートなのか。 彼に会う数時間前に読んだコラムの見出しを思い出しながら、は彼、付き合って5年目になる目の前の男に目を向けた。男は、の視線には気づいているのだろうが、眉毛ひとつ動かさず、小難しそうな古書をひたすらに読んでいる。 彼との間にはゴールもスタートも訪れないだろう、は思う。 付き合って5年と聞けば、人は口々に「長いね」「結婚はまだ」などと好き勝手なことを言う。5年、世間一般の感性では倦怠期を何度も乗り越えてきたような、そんなイメージなのだろう。けれど、と彼の5年にはそんな重みはない。少なくとも、はそう考えていた。 さらり、とページを捲る音が聞こえる。相変わらず自分の世界に浸りきっているこの男、クロロ・ルシルフルの顔は、絶世の美男子とまでは言わないにしろ、すれ違う女達が振り返るほどの、とは表現したくなるような美貌で彼の漂わせているミステリアスな雰囲気がその容姿を更に際立たせた。 そう、彼はミステリアスすぎるのだ。 付き合って3ヶ月目のある日、彼は突然姿を消した。携帯電話の電源は切れたままだし、玄関の前で何時間、何日、何カ月と待っていようとまったく姿をみせない。ああこれは捨てられたな。とが思うのは当然だった。 それからしばらくは、クロロのことを忘れたように普通の生活をして、それでもたまに大好きだったクロロのことを思い出して泣いて。そんな生活を続けていると、姿を消してから6カ月後、なにくわぬ様子でクロロがメールを寄越したのだ。「今夜会えないか」と。 「今まで何してたの」 どこでいたの、どうして帰って来なかったの、どうして連絡もくれないの。 矢継ぎ早に、責め立てる言葉をたくさんたくさんクロロに向けて投げかけた。クロロは鬱陶しそうに眉をひそめた。 「……仕事だと言わなかったか。それ以上の質問はやめてくれ、詮索されるのは嫌いなんだ」 クロロは冷たかった。ここでが「そんなの聞いてない」と責め立てればすぐにでも別れを切り出されそうだと感じるほどに。 だから、は何も言わなかった。 それからも、クロロは1年に3回は姿を消した。そんな調子で、5年。 ▼ 今日で、5年と3カ月。またクロロが姿を消した。 さすがに16回目ともなればも慣れたもので、カレンダーに赤丸をつけて「次は何カ月だろう」と呟くにとどまった。泣いたり探しまわったりは、もうしない。 とクロロの関係は何も変わらなかった。けれど、も今年で23歳。取巻く環境はかわっていく。 「結婚?私が?」 母が神妙な面持ちでにどうしても断れない縁談がきたのだと言った。父もその隣で唸っている。 は何故か冷静だった。落ちついた声で、「自分達は恋愛結婚だったのに?」と呟いて両親を責め立てることができるぐらいに。。う、と言葉に詰まり視線を泳がせた母と、「いやあ、ゾルディック家からの申し出ともなれば……」とごにょごにょと聞こえるようで聞こえないぐらいの音量で呟く父。 「だいたい、何で私なの」 家は暗殺を生業として生きている一家で、ゾルディック家と繋がりがないわけではなかった。ないわけではないけれど、暗殺を業界では知らぬ者は居ない超有名一家が、ワンランクもツーランクも下の家から嫁を貰おうと考えるなんて、どう考えたっておかしい。 「仕事で一緒になったことがあるって聞いたわよ?」 「え、ないない!写真見たって全く思い出せないもん」 「でも、すごく光栄なことよ?すらっとしてて格好良い方だし……」 「押し付けてこないでよ。子供の幸せを願わない親なんて最低」 「……母さんだって悪いと思ってるわよ。でも、どうしても断れないのよ」 ごめんなさいね、と母はに謝った。父も、「悪いと思っている」と。の頭の中で、クロロ・ルシルフルが笑う。「政略結婚とは、今時珍しいな。好きにするといい。俺とお前の仲はそれほどのものでもなかっただろう?」と。 と両親の冷戦は数日間続いたが、小娘の力ではこの縁談を覆すことができず、数日後、・とイルミ・ゾルディックはゾルディック家にお膳立てされた初デートで顔を合わすことになった。 ▼ 「こ、ここのシフォンケーキがすごく美味しいんですよ。イルミさん、甘い物はお好きですか?」 「別に、普通だけど」 「そうですか」 沈黙。 「イルミさん、この後はどこへ行きましょうか」 「別に、どこへでも。行きたいところがあるなら着いて行くけど」 「そ、そうですか……」 沈黙。 あのゾルディック家の長男だという目の前の男は、クロロに負けず劣らずミステリアスだった。顔は整っている。確かに整っているが、感情が全くない彼の表情と淡々とした話し方は少しだけに恐怖を与えた。 おまけに何を考えているのか、会話を弾ませる気づかいも全くない。 クロロにも、胸の内では何を考えているのか読めないという怖さはあったけれど、会話が続かなくて困ったことは今までなかった。 何を話そうか、何を聞こうか、と頭の中でぐるぐるとまわる。イルミ・ゾルディックは、そんなの苦悩も知らず優雅にレモンティーを飲み干すと、「そろそろ出ようか」と言って立ち上がり、伝票を手にすたすたと歩いて行ってしまった。「え、え、」と慌てて後を追うと、イルミは既に店の外に出ていて、が来たことに気が付くと外からドアを開いてが出るまでドアを支えてくれた。 「あの、ありがとうございました、ご馳走様でした」 「うん、じゃあ、またね」 「え、あ、はい、また……」 の返事を待たず、イルミは去ってしまった。カフェの中でのようにもうを待つ気はないらしい、一瞬で姿が見えなくなってしまった。腕時計を見ると、まだ出会ってから1時間しか経っていないことが分かる。 はイルミが居なくなった方角を見ながら、私のことが気に入らなかったんだろうか。とあたふた。けれど、これで縁談が破談になれば万々歳じゃないか、と思い直した。 「変った人……」 気が抜けて、思わずそんな言葉が飛び出た。家に帰ったら両親に今日のことを根掘り葉掘り聞かれるのだろう。そう思うと、行きと同様に足が重い。 そしてもうひとつ。残念なことに、今日もクロロからの連絡はない。 index/next |