溺れることがすべてだと、  




軍議も終わり人気もまばらになって来た頃、曹操は「仲達」と短く軍師を呼んだ。呼ばれた軍師は、用件を問わずとも何を求められているのか分かっていたらしい。
人目を気にして普段の彼と比べて少しだけ小さい声で 「様は市井の男に入れ込んでおられるようです」とだけ告げた。
曹操は「む」と唸る。

様の城下への出入りが以前にも増して激しくなっているようです。なにかお心当たりはございませんか’

司馬懿がそう進言してきたのは、つい2、3日前のこと。

「さて。気の合う女子でも見つけたんだろう」

そのときは対して考えもせずそう答えた曹操だったが、市井の男、入れ込む、という言葉を聞けばそうも呑気なことは言っていられない。

「…自由が過ぎたか」

「私は何度も言いましたぞ、様を甘やかしすぎだと」

習い事もそこそこに城下に飛び出していく姫君がどこにおられるというのです、と司馬懿が呆れた視線を向ければ、曹操はほんの少しだけしゅん、としたような素振りで口を開いた。

「そう怒るな仲達。わしはあれが可愛くて仕方ない」

「その結果、市井の者に入れ込む始末です。まさか娶らせるとでも」

「馬鹿をことを、わしの目に適う相手にしかはやらんわ」

「なれば、早急に手を打つべきかと」

曹操は、娘の中でも一番の器量と称される姫に甘かった。欲しいものは全て与え、やりたいこと言うことはは全てさせて育ててきた。だからは、城下にだって自由に行き来できる。曹操はの「大好き」に滅法弱かった。そして「大嫌い」にも。

「この件は私にお任せ下さい」

年若い、青白い顔をした軍師はそう言い切った。曹操は頷く。
それから、姫様の話はぷつんと途切れて次の戦の話となった。







姫は今日も朝から大忙しだった。
舞の稽古も早々に切り上げ、剣、薙刀の稽古は無理を言って明日に回して。
何をするのかと思えば、いそいそと質素な麻の衣に身を包み、簪も翡翠から木製のものに差し替えをしているところだった。
また城下へと向かうらしい。どんな格好をしていても滲み出る品格が市井の女のそれとは明らかに違っていて、見る人が見ればすぐにばれてしまいそうであるが、当の本人はうまく変装できたと満足げである。

は人目を気にしながらこそこそと城下の人混みに紛れ込んだ。

次の角を右、左、そして突き当りを左。すいすいと進んでいくは、やがて、色とりどりの果実の前で足を止めた。小さな果物屋が目的地だった。

「白椰、」

「……!」

勢いよく腕の中に入ってくるをしっかりと抱きとめて、白椰と呼ばれた男は恥ずかしそうに頬を染めた。それから愛おしそうにの頬を撫でた。大きな手に頬を包まれて、は頬を赤くしながらも幸せそうに微笑んだ。

「……今日はお母様はお休みなの?」

「ああ。ずっと具合が悪くてさ。部屋で頭から布団被ってぐっすり寝てるんだ」

「それは心配ね。お薬は飲んでるの?お医者様はなんて?」

白椰の母は、が1週間前に訪れた時から、具合が悪そうに咳ばかりしていた。風邪が長引いていることを心配してはついそう言ってしまったが、白椰は動揺したように瞳を揺らした。

「え、医者、薬って・・・・・・そんな高価なもの買えっこないよ。・・・医者には何度も診察を断られたんだ」

「え・・・そんな・・・」

医者に見てもらうことが当たり前だったは、白椰の言葉に曖昧な返事しか返せなかった。医者に掛かることがそんなにお金のかかる事だとは知らなかったのだ。
曹操も、の母も、の習い事の先生達も、皆、には過保護だった。 がコホンと咳をひとつすれば、耳聰く聞きつけすぐに典医を寄越した。「平気だ」と言っても通用せず、の大嫌いな苦い白いお粉をたっぷりと処方していくのが常だった。典医は呼ばないで、お薬は嫌だ、と喚いていた自分はなんて贅沢だったのだろう。

「……まあ、そういうわけで、俺はこの通りずっと店番だからとどこかへ出かけたりっていうのはしばらくは無理そうなんだ」

「うん、そ、そうよね……私、今日は帰るわ、お母様、早くよくなるといいね」

白椰はありがとう、と微笑んだが、「お兄ちゃん、ちょっといいかい」と買い物客に声を掛けられての元をすっと離れていってしまった。はしばらくの間名残惜しそうに白椰の背中を見つめていたが、お客さんとの会話は終わる気配がない。仕方なく、そっと背を向けて去っていった。







人々の纏わりつく視線の不快感に思いっきり顔を歪めながら、司馬懿はある場所に向かっていた。着ている服、纏う空気、顔つき、匂い・・・何もかもが市井のものと明らかに異なる司馬懿は、注目の的だった。
「司馬懿様だ、」と魏が誇る名軍師に敬愛の眼差しを向ける者も多数。だが、そんな者たちには視線すら与えず、司馬懿は早足で人混みを縫い進む。やがて、みすぼらしいある果物屋の前で足を止める。

「白椰、と呼ばれる者に話があるのだが」

高圧的な司馬懿の態度に、軒下に立っていた老婆がびくりと肩を揺らす。

「白椰は私ですが・・・」

怯えるだけで口を開かない老婆を怒鳴りつけそうになった司馬懿だったが、タイミングよく現れた男のお陰で冷静さを取り戻した。白椰、様がご執心の相手。確かに精悍な顔立ちではある。しかし、身を包む麻の衣服はよれよれで、不格好だった。小汚い男だ。思わず嘲笑すら零れる。

「・・・この者はお前の母か。この尋常ではない痩せ細り方、何かの病とみて間違いなかろうな。もう長くはない」

「な、あなたは一体……」

「この暮らしぶりでは医者に掛かるのは難しかろう。……貴様の行動次第では、私が手を貸さぬこともないが」

扇で口元を隠し、唯一見える目元はぎらぎらと妖しい光を纏っていた。その悪魔のような囁きに、白椰は震った。そして。



▲▼



さて、その日も姫は今日も朝から大忙しだった。
薙刀の稽古を切り上げて、舞の御稽古を明日に回して。慣れた手つきで麻の衣に着替え、木製の簪をつけて。

「え……」

いつものように白椰が出迎えてくれる…典医にもらった?よく効く薬?を片手に、息を切らせながらやってきただったが、その場所からは白椰どころか、果物屋さえも無くなっていた。毎日欠かさず店先に並んでいた色とりどりの果物も、店先に置いていた椅子も、何もかも。残っていたのは空っぽになった建物だけ。

「あの、すみません。ここにあった果物屋は・・・」

「そうさ、私達もびっくりしたんだよ。朝起きたらもぬけの殻でねえ」

「そんな・・・」

果物屋の隣のお店の店番に話かけてみるが、白椰の足取りは掴めない。
ほろほろと。突然溢れ出した涙はもう止まらない。慌てて果物屋の家の影に移動し、うずくまった。大切に持ち運んできた薬を乱暴に隣に投げ出して、両手で顔を覆って身体を震わす。

様」

背後からの見知った声に、は心臓が跳ね上がる。習い事をすっぽかして出てきた手前、御目付け役であるこの声の主には出会いたくはなかった。

「司馬懿・・・」

涙の膜で視界がぼやけていたが、の眼前には確かに司馬懿がいた。泣き顔を見られるのは耐え難く、は乱暴に涙を拭おうとしたが、寸でのところで司馬懿の手に阻まれる。けれど司馬懿は、の涙については何も触れなかった。

「このような場所で、何をしておられるのです?いつ倒れるかも分からぬ廃家にあまり近づかれぬよう」

言葉と一緒に差し出された、上等な絹の巾で、司馬懿はなまえの涙を優しく拭った。その行動が意外で驚き、もごもごと小さい声で「ありがとう」と返すことしかできなかった。

「司馬懿こそ・・・・・・何故ここに?」

「城下に急ぐ様が見えたので、後を追っておりました」

軍師というものは、表情ひとつ変えずに相手を策に落とし込む。そう知っているからこそ、は司馬懿のことを疑う他なかった。

「・・・偶然ではなく、父に言われたのでしょう」

は浅いため息の後、ゆっくりと立ち上がり地べたに腰掛けて汚れたであろう衣服を軽くはたいた。

「もう、来ることはないと思います。心配を掛けました」

白椰に何があったのかは分からない。けれど、何も告げず一晩で消えてしまうという行為の意味は、にだって理解できる。

「・・・・・・この家の者に用があったので?」

「・・・違います、ただ散歩してただけ」

白々しく無関係を装う司馬懿に腹を立てながらも、その怒りを表に出すようなことはしなかった。

「帰りますよ、様」

自然に繋がれた手にぎょっとしては堪らず手を引くが、細腕とは思えない程の握力で痛いぐらいに掴まれてビクとも動かない。

「手は繋がなくても良いのでは・・・!慣れた道です」

大股で颯爽と歩く司馬懿は、を一瞥もせず独り言のような小さい声でただ一言呟いた。

「余所見せず、私に着いてくれば良いのです」

「え?」

に届くことはなく、民の喧騒と足音に紛れて消えた。



▲▼



あの日から数日後。

「殿!」

軍議後に響く司馬懿の声に、曹操はきたか、と内心溜息を吐いた。

「朝も早くから元気なことよ」

「殿!様を帝に献上するという話は真ですか」

この軍師にしては珍しく余裕のない様で、曹操相手に声を荒らげている。無礼な男だ、とその場に居合わせた誰しもが思ったが、曹操がそれを咎める様子はなかった。それどころか、面白がるような声色を司馬懿に向けている。

「司馬懿、何を憤ることがある。帝程の相手は居るまいに」

「伏皇后の醜聞はご存知のはず。あの者の目が光る宮中で、様が慶福に身過ぎできるとお思いですか!」

実際にはの他に3人の娘を同時に献上するということで話が進んでいたのだが、司馬懿にとって重要なのは“”ただ1人だった。名軍師の末娘への執着は、曹操ももちろん知るところではあったが、それが親愛か情愛か計り兼ねていた。

「仲達、お主の目に叶う者を捜していては、は死ぬまで独り身よ」

言い終えると曹操は、これ以上話すことは無い、と言わんばかりに軍議で手渡された竹簡に視線を落とした。

「私の目に叶うものなど、1人を除いて居りません」

豪然とした態度に、思わず曹操は司馬懿に視線を戻した。


「秀でた才を持ち、丞相からの信頼も厚く、稼ぎもあり、出自も良い。私以外に様の相手が務まるとは思えません」


そう言い切る男の不遜な態度に、曹操は顔を顰めるどころか大口を開けて笑い始めた。

「やはり情愛だったか、仲達!」

自分で自分を推薦するとは、烏滸がましい奴よ!言葉とは裏腹に曹操は楽しそうだった。

「のう仲達、儂はいずれ帝から帝位を奪う。その足掛かりであった婚儀を邪魔するからにはそれ相応の対価が要ると思わんか」

「勿論です。丞相は魏公となり世を掌握するお方・・・この司馬懿仲達、必ずやその本懐を遂げると約束致します」

あの自尊心の高い司馬懿が恭しく膝を着いて拱手などするものだから、曹操はいよいよ気分が良くなり是、と許しの言葉が滑り落ちた。

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