花と獣  




ちく、ちく。
下腹部の違和感を感じた。気のせい?ううん、違う。少しの違和感から始まるそれは、わたしがこの個性に生まれた時から付き纏う、逃れなれないものなのだけど、まだ前段階である今ですら、言いようのない感覚が下腹部から始まり全身を駆け抜ける。

「・・・っ」

息を止めて疼きを押し殺す。
年に2回ある“発情期”が始まろうとしていた。


これまでの経験から言うと、この下腹部の違和感が始まって5時間以内には抗えない体の内からの渇望が始まる。つまり、悠長に退社の時間を待つ余裕なんてない。この男所帯で“発情期”という言葉を口にすることは憚られたため、未だ誰にも打ち明けることができておらず、嘘を並べて休みを貰う必要があった。罪悪感に苛まれながらゆっくりと言葉を選んでいく。

「すみません、急で申し訳ないんですが、明日からしばらく、お休みをくださ、い・・・」

庶務を兼任しているサイドキックにお願いする声は、既に甘くて吐息混じりだった。 勝手に顔が上気するのを止められない。 早すぎる異変を押さえ込みながら必死に言葉を口にするしかない。

「ん、何、どうした?」
「急な・・・体調不良で・・・・・・」

心配そうな顔を向けてくれるのが申し訳なくて、思わず涙が零れる。

「す、すみません・・・・・・!」

普段どれだけお叱りを受けようとへらりとしているわたしなので、ほろほろと流れる涙をみた先輩はぎょっとしている。

「おいおい、泣くなよキティ!大丈夫か?しんどいのか?書類とか、俺が勝手にやっとくから、今すぐ帰れ!」
「ありがとうございます・・・!」

「シャチョーは今現場だし、俺から伝えとくからな!シャチョー帰るまで待たなくてもいいからな!」と気にしていたことを先回りで言ってくれて、ううう、とまた涙があふれる。

「ありがと、ございます・・・優しい、好き・・・」
「その顔でやめろ!洒落にならん!いいからはよ帰れ!」

元気を振り絞っての“キティらしさ”は手を払われて終わった。



更衣室でタクシーを呼び、波が引いたタイミングを見計らって家に帰る。
波が迫る感覚はどんどん短くなって、最終的にはピークが休む間もなく押し寄せる。本能が、子宮が、子孫を残したいと暴れだす。誰にも助けを求めることなんてできない。1人ぼっちの部屋に戻り、ただひたすらに唇を噛み締めて耐えるしかないのだ。


▲▼


「キティが早退?」

シャチョーが戻ってすぐに、サイドキックはキティの様子と向こう1週間ほどの休暇をとることを伝えに社長室へ出向いた。

「朝の戦闘で怪我でもしたか」
「いや、怪我と言うよりは・・・病気?シャチョー、何かキティから聞いてますか?かなり苦しそうで・・・あのキティが泣く程ですから・・・」
「私は何も聞いていないが・・・泣いていたのか」
「ちょっと見てられなくて、シャチョーの許可も得ず“早く帰れ!”って追い出しました」
「良い判断だ。・・・キティが抜けた穴は大丈夫なのか」
「はい。・・・あのキティがですよ?今朝の分までしっかり報告書提出してたので、事務的な負担は全くありません。メディアの仕事もこの1ヶ月はスケジュール空けてたみたいで、こちらから連絡とって云々はなさそうです」
「そうか」

最近キティはぱったりと社長室来なくなった。報告に訪れたとしても、「じゃ、仕事に戻りますね」とすぐに出ていく。その不自然さに違和感は感じていたが、本来であれば社長室に入り浸る方が問題行動なわけで、仕事に励む部下に「どうした?」などと聞けるはずもなかった。


「何かあったのだろうか」
「今月に入って元気がない、とは何人かのサイドキックが口にしてましたが」
「そうか・・・・・・」


▲▼


“にぃゃぁぁぁぁぁぁぉぉおおおおおん”


いつもの愛らしい声とは質が違った。
猫型のままフローリングに腰を擦り付けて快感を逃がすは、地を這うような低い唸り声をあげている。


僅かに正気に戻るタイミングを待って、水分補給、栄養補給、そしてまた次の波に備える。
延々と繰り返すそのローテーションは尋常ではないほどの疲労感で、泣いても鳴いても誰も助けてはくれない。



学生時代、ミッドナイト先生には“男作りな!”とあけすけに言われたことがあったが、ヒーローになってそんな暇も余裕もなく。この苦しみから開放されるなら、もう相手は誰でも良いと簡単に楽な方に流されるのも嫌だった。だから、スマートフォンに助けを求めないよう、猫化のままでひたすらに耐える。人型で喘ぎたくない、悶えたくないという僅かなプライドもそこには存在していた。


うにゃあああぁぁぁぁああおおおおおお


声が枯れるほどに鳴いて、疼きから逃れるために腕を噛んでみる。血が出るほどに噛み締めても、その痛みすら気持ちいいと感じてしまうのだから笑えない。

毛並み自慢なブラウンキティの顔は、涎と涙でぐちゃぐちゃだった。


“ピンポーーン”


朦朧とする意識の中で、インターフォンの画面を見つめる。オートロックのマンションであるのに どうしてか、エントランスではなく部屋の玄関に設置されたインターフォンの映像が映し出されている。

(シャチョー・・・・・・!!)

心配して来てくれたんだと思うと涙が溢れた。
でも、こんなドロドロな姿を見せられるはずもなく。 床に倒れ込んだ状態のまま、人型に戻りスマートフォンに手を伸ばす。 シャチョーにダイヤルすれば、1コールと待たずに声が聞こえた。

「キティ?!無事か」

耳元で聞こえる低い声にぞくぞくする。っはあ、とマイク部分を指で抑えて迫り上がる疼きをひた隠す。 息を整えないと、乱れた吐息がシャチョーに伝わってしまう。 深呼吸して、甘い疼きをぐっと堪えて歯を噛み締めて、ゆっくりと口を開く。

「シャチョー、ありがと、でも、っ、帰って」
「・・・誰かいるのか?」
「居な、い・・、・・・・ん」
?」

シャチョーが名前で呼ぶから、ぞくりと抗えない何かが背筋を駆け巡る。あ、やばい、声、出る・・・!


「にゃあああああおおおおおお」
咄嗟に猫化して高まる熱に耐える。唸るような声もシャチョーに聞かせたくはなくて、猫の手でスマートフォンを押してできるだけ身体から遠ざけた。その所為でシャチョーの声は聞こえなくなってしまったけれど、仕方ない。辛くて苦しくて、もう何も考えられない。


!!」


スマートフォンからではない大声に、じわりと尻尾の付け根が湿る。シャチョーだから?わたしが発情期だから?低い声は容赦なくわたしの女の部分を刺激する。猫なのに鼻水まで垂らして、わたしは両手で耳を抑えた。もう聞きたくない、帰ってよシャチョー!


バキッ!


突然大音量で何かが壊れる音がして、驚愕で尻尾が無意識に太くなる。その音に紛れてキイイインと甲高い音も、猫の耳はしっかりと拾っていた。わたしは惨めさからまた泣いた。玄関ドアが壊されたんだ。シャチョーは入ってくる気なんだ。
こんな緊急事態なのにわたしの身体を襲う発情の波はピークで、フローリングに身体を横たえてぴくんぴくんと痙攣まで起こしている。

!!」

リビングまでの廊下を駆けてきて、シャチョーが私を抱きかかえた。



「にゃあああおおおおお」


どうした、一体何があった!とドロドロのわたしの顔を、持っていたハンカチで拭ってくれる。その振動でわたしの臀部を抑えるシャチョーの腕も揺れて、もう、ダメ、わたし、我慢出来ない、

「にああああ」

入れてほしい。そんなふざけたお願いは、猫の姿ではただの鳴き声にしか変換されない。いつもと違う鳴き声に驚いた様子のシャチョーは、心配そうな顔でわたしの額を撫で、労わるようにソファに寝かせてくれた。
シャチョーの手が離れたその一瞬の隙に、わたしは隣の寝室まで走り人型に戻ってドアを閉めた。「キティ!!」と焦った声が聞こえてくる。


「シャ、チョー・・・!帰ってって、行っ、たのに!」
「馬鹿なことを!出てこいキティ!」



「わたし・・・今ダメなんっ・・・です、ぅあ・・・お願いします、放っておいて・・・・・・!」

逃げ込んだ寝室でも、身体を起こしていられずフローリングに身体を投げ出す。ひぐ、ぅぐ、と嗚咽なのか喘ぎなのか自分でも分からないような声が漏れる。
嫌なのに、嫌なのに、心のどこかで期待してしまう自分も嫌だった。シャチョー、お願い、助けて・・・とすぐにでも言いたかった。

「放っておけるはずないだろう!入るぞ!」

シャチョーはヒーロー。困っている人を見捨てたりはしない。顔に似合わず優しい人。「やめ、て・・・シャ、チョー・・・・・・」分かっていたのに、拒否する言葉を口にするのは最後に残ったわたしの矜恃だ。

ガチャリ、と寝室のドアが開く。




・・・・・・」


フローリングに横たわるわたしの様子をみて、シャチョーが息を飲んだのが分かった。涙の膜が張ったわたしの瞳では、シャチョーの表情までは分からない。

「わた、・・・し、今、発情期、だから・・・・・・」
「・・・!!そ、そうか・・・すまない・・・」

漸くわたしの乱れた姿に合点がいったのか、シャチョーは謝罪の言葉を口にした。シャチョーの低い声は毒だ。じゅくじゅく疼く下腹部はわたしから思考能力を奪っていく。口を突いて飛び出しそうになる言葉を抑えるために、唇を強く噛んだ。


・・・」


何故か今日のシャチョーはわたしのことを名前で呼ぶ。そして、あろう事か、人型の私を優しく抱き上げた。

「ひ、あ、シャ、チョー・・・!っ、だから、わた、し、発情・・・期だって・・・!」
「見ていられない・・・私に何ができるだろうか」

わたしの顔に張り付いた髪を、シャチョーが1本ずつ剥がしていく。シャチョーの指が触れる度びくんと震えるのが恥ずかしい。蕩けた頭でも分かる、きっと正気に戻ったとき、待っているのは後悔だって。でも、もう、我慢なんてできない。


「・・・分かってる、くせに・・・っ」


震える手でシャチョーの口元を撫でると、もうそこからは言葉は要らなかった。
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