泥濘の春
シャチョーのデスクの上で丸くなり、首の下を優しく撫でられてゴロゴロと喉を鳴らしていると、BGM代わりに付けていたテレビから、“あの有名レストランの夏のスペシャルディナーコース、ついに本日から始まります!”とリポーターの熱の篭った言葉が聞こえてきた。ピン、と耳を立ててテレビに意識を集中させる。 ホテル最上階からの夜景を一望しながらの高級フレンチは紹介されるどの料理も美味しそうで、「にゃあぁ(すごい・・・!)」と思わず口から零れた。 「行きたいのか」 わたしの感動がシャチョーに通じたのか、「リッツカールトンか」とホテルの名前を呟いている。 そりゃあ行きたい! 「にゃああ!」 今までにないテンションで鳴けば、シャチョーが目を細めた。 「・・・行くか」 やった!嬉しさのあまり一瞬で人型に戻ると、デスクに腰掛けたままシャチョーと向き合う格好となる。顔が近くなりすぎて驚くシャチョーを逃がさず、頬にちゅっと唇を寄せると不機嫌そうに身体を離された。シャチョーは事務所でスキンシップをとることを嫌がる。分かっていてわたしはくっつくのを我慢出来ないのだ。 「・・・いつがいい」 「やった!いつでもいいよ、シャチョーに合わせる」 「そうか。・・・・・・時間があるのは来週末だが」 「あっ、ごめん、その日は雄英女子会で」 「・・・再来週でも構わないが」 「その週末はカラオケの約束が・・・」 「・・・お互い今週の水曜は早番だろう。少し遅くなるが仕事終わりにでも」 「ごめんシャチョー、その日は映画の約束が・・・・・・」 ギロリ。 赤い瞳でひと睨みされて、猫耳が垂れる。 ・・・シャチョーに合わせるとか言いながら、予定が詰まりすぎている。どの約束も数週間前からスケジュールに居座ってるものなので、シャチョーを優先してキャンセルするのも申し訳ないし・・・ 「今週末は?」 「・・・週末から九州に出張だと言っただろう」 覚えてないのか、と言われてしまい押し黙る。そうだった。シャチョーは水族館でシャチ達とショーを披露し、そのあとに講演会があるのだと言っていた。“3日間もシャチョーと会えないなんて寂しい”と甘えた記憶が蘇る。 「怒んないでよ・・・ごめんね、」 つい猫のときの癖でシャチョーに頬ずりをしてしまう。猫の時は喜んで受け入れてくれるシャチョーも、今は顔を顰めるばかり。 「機嫌をとろうとするな、怒ってなどない」あからさまなわたしのご機嫌伺いは不評を買ってしまった。 スケジュールを再考してみる。シャチョーが居ないならカラオケか映画の予定を今週末にずらせば・・・あ、映画は予約してたんだっけ。ならカラオケの方か・・・・・・うん、大丈夫。 「再来週行こう?」 「…予定は」 「ずらしてもらう」 「相手はそれでいいのか」 「みんな暇してるし、大丈夫だと思う」 一応連絡入れてみるね、と前置きして、腰のポーチからスマートフォンを取り出した。シャチョーの目と鼻の先でスマートフォンを弄るのは憚られたので、デスクから降りてソファーへと移る。 緑のアイコンをタップする。定期的にカラオケで歌いまくるわたしと上鳴くんと切島くんは、カラオケ会というグループを組んでいるのでそこで日程変更をお願いする。 “みんなごめん。カラオケ、今週末に変更できる?” 切島くんは真面目だから休憩時間にならないと返信は来ないだろうけど、上鳴くんは出動さえしてなければ反応は早い。 案の定すぐに既読が1つ表示され、チャージズマが親指を立てているスタンプがポンと送られる。いつの間にスタンプになったんだろう、羨ましい。 “反応早い!助かる〜!てか、いつの間にスタンプ?!羨ましい・・・” “企業コラボ!無料配布中だからも使ってな!” 電力会社の公式LIMEとお友達になればすぐに使えるようになるそうで、上鳴くんの誘導に従ってスタンプをダウンロードする。その間に既読が1増えていて、切島くんがメッセージに気づいたことを知る。珍しい。 わたしがチャージズマスタンプを使うより先にポン、と画面に現れたのはまたもやサムアップしたチャージズマスタンプ。送り主は切島くんだった。わたしも流れに乗り、ありがとう、と笑うチャージズマのスタンプを送る。 “おー切島まで!ありがとな!” “日程変更もありがとう。切島くん珍しいね、こんな時間に” “俺今日休み!” “あー、なるほど!じゃ、カラオケは今週末ってことでよろしくね。わたしは仕事に戻ります、またね!” 「シャチョー、やっぱり大丈夫だったよ!」 現実的になったシャチョーとの雰囲気ばっちりディナー、楽しみでしょうがない! キレイめなワンピースを着て、足元はこの前買ったジミーチュウのパンプス!ボーナスで奮発して買った1粒ダイヤのピアスも付けちゃおう。・・・念の為下着も気合い入れてグースベリーにしちゃおうか!ふふふ、自然に笑顔になるわたしにシャチョーも機嫌を直してくれたのか「楽しみだな」と言ってくれた。 「すっごい楽しみ。お洒落するね!」 その日からの仕事はいつも以上に頑張れた。 ▲▼ シャチョーがお供のサイドキックをつれて、九州に出発した。ショーの写真撮ってきて下さい!と先輩にお願いしたら、「写真と言わず動画撮ってくる!」と約束してくれた。シャチと戯れるシャチョー、楽しみすぎる。 わたしの方の今日の予定は、上鳴くん切島くんとのカラオケ会だ。 「え?上鳴くん来れないって?」 現地集合してカラオケの部屋に入ると、切島くんがLIME画面を見せてきた。 “停電騒ぎで休日出勤・・・!当日で悪ぃけど今日無理んなった。泣く泣く出動してきます!” そういえばどこかの化学工場が爆発したとかで、ニュースになってたなあ。 「ええー残念・・・、上鳴くん来ないんだ。1番楽しみにしてたのにね〜」 「な。もうちょい早く分かれば延期にも出来たのに」 上鳴くん抜きで切島くんと遊ぶのは実は初めてだった。上鳴くんとならよくランチに行ったりしてるんだけど・・・ほんの少しだけ緊張するけど、もう既にカラオケに入っちゃってるんだから仕方ない。 「ま、いっか。歌おう!飲もう!」 「や、俺ももちろん構わねえんだけどよ、、この前彼氏出来たって言ってただろ。男と2人でカラオケってセーフなのか?怒られねぇの?」 シャチョーはそういうとこ寛大そうなんだけど、わたしも敢えて誰とカラオケに行くかは伝えていなかった。うーん、大丈夫だと思うんだけどなあ。 「・・・大丈夫!同級生みんな仲良いって知ってるし」 「そういうもんか?そっか、なら続行で!俺歌いたい曲メモってきた」 「すご!本気じゃん!」 いつものように食べ飲み放題を付けて歌っていると、緊張なんかすぐに吹き飛んだ。 生中、ジンジャーハイ、麦ロック、赤ワイン・・・ どれも美味しい・・・! ・・・ 「・・・大丈夫か?」 満足するまで歌いきったわたしたちが店から出たのは午前5時過ぎだった。 座ってる時は大丈夫だと思っていたのに、立ち上がるとふらふらしてひとりでは歩けない。 「えっ・・・びっくり、切島くん、歩けない」 「大丈夫か?肩貸すし、家まで送る」 切島くんが力強く支えてくれるおかげで、わたしは足を動かすだけで良いのに、それさえも上手くいかない。もともと緩めのパンプスの踵部分がカポカポして今にも脱げそう。細かいところに気を使って歩くことがなかなか難しい。 「悪ぃ、飲ませ過ぎたな」 「ううん、わたしが好きで飲んだの、ごめんねえ」 「吐き気は?」 「ん、それは平気」 あっ、パンプスが脱げた。わたしを壁際に預けてすぐにパンプスを拾い履かせてくれた切島くん。ちっとも嫌な顔しないところが優しすぎる。 「ごめんね、切島くん。ありがとう」 「いやいや、これぐらい全然」 再びわたしの身体を支えながら、切島くんが「あっ!」と顔を輝かせる。 「なに?」 「、猫化すれば早いんじゃね?」 「あっ、ほんとだ!」 いつもならすぐ思いつくのに。カポカポのパンプスで歩く女より、小さな猫の方が絶対切島くんも楽だ。・・・服脱げちゃうけど、切島くんなら大丈夫でしょ。 「・・・でもねえ切島くん、猫になるとねえ、服がね、脱げちゃうの」 「え?」 「だから切島くん、悪いけど、わたしのバッグに全部入れてね、しわしわでも良いよ。靴も忘れずにお願いします」 「えっ?」 切島くんからの返事を待たずにわたしは猫になった。4本足になっても上手く平衡感覚を掴めずふらふらと揺れている。 「・・・っておい!下着もか!!」 切島くんは丁寧に服を畳みながら、わたしの紺色の下着を見つけて震えている。ごめんね切島くん。わたしも酔いが醒めたら恥ずかしくなって後悔すると思うけど、今はあんまり頭が回らないんだよね。 パンパンに膨らんだわたしのバッグを肩にかけ、切島くんが優しくわたしを抱き上げてくれる。 「抱き方あってるか?痛くねえか?」 「にゃおん」 「・・・のマンションって、この前みんなで飲んだとこだよな」 「にゃ」 「俺部屋番まで覚えてねえかも」 「にゃおん」 「ま、猫の姿でもエレベーターのボタンぐらい押せるか」 「にゃおん!」 「だよな!」 あ、もうすぐ着きそう。マンションが見えてきて、わたしは切島くんの腕の中でゆっくりと頭を起こした。 「鍵、バッグの中だよな?見ていいか」 「にゃー」 わたしを下ろしてバッグを開ける切島くんに、内ポケットを指し示して合図する。 キーケースの3本目の鍵を爪でつつくと、分かってくれたようだ。その鍵を使ってエントランスの自動ドアを開けると、そのまま2人でエレベーターに乗り込んだ。わたしがサッと15階を押すと、「最上階・・・まじか・・・儲けてんな・・・」と切島くんは驚いていた。ヒーロー活動としての給料というより、副業で稼いだお金だけどね。 当たり前だけど、切島くんは送り狼になどならずに、部屋に上がることさえ辞退して帰っていった。漢だ。 わたしは切島くんを見送ったあと、そのまま人型に戻り、裸のままブランケットに包まって眠りに落ちた。 まさかわたしたちの姿を週刊誌のカメラマンが撮影してたとは露知らず。 |