繊細ビート  




甄姫様や呉の国の姫様など、戦場で華々しい活躍をみせる女性が居る。周りの女中には、そんな彼女達に憧れて戦場でも夫と共にありたい、と目を輝かせる者もいるけれど、…恥ずかしいことを言ってしまえば、私は戦でなく家で旦那様を癒して差し上げられるような妻になりたいと思っていた。 もちろん、女でありながら殿方と同じように戦う彼女達の勇気はそれはそれは凄いものだと思う。けれど、私は「おかえりなさいませ」と笑顔で出迎える温かい家庭をつくりたいのだ。


こんな風に戦場には無縁の生活をしており、大まかな戦場以外は知る由もなくとことん疎い私だけれど、魏の国を担う大将軍の名前や、人々に噂される降将についてはそこそこの知識がある。だから、父上から「曹操様が、ホウ徳様をお前の妻に如何かと仰られた」と聞かされたときは、その名前に驚いた。

「…曹操様のご命令なら私の気持ちを申したところでどうにもならないではありませんか。酷いことをお聞きになりますわね、父上」

どうだろうか。と機嫌を伺うように問うてくるものだから、私はツンとして言い放ったのだ。
ホウ徳様と言えば、馬超と言う武将の下から魏に降った方で、実力はあるが魏軍に馴染めていないと噂で聞いたことがある人だった。 父が『降るなど、腰抜けのすること』とホウ徳様の事を家で罵っているのも何度か聞いていた為、お顔を拝見したことすらないにも関わらず、良い印象を抱いてはいなかった。
曹操様は、信用ならない降将にとっとと妻子を持たせて魏に取り込もうとしておられるのだ。父が言う。 そんなことは分かっております、と強く言い放つと父はしゅんとして黙り込んだ。
父としても納得してはいないのだろうと思う。それはそうだろう、父だって、ホウ徳様を良く思っていないのだから。


「父上、申し訳ありません。驚きから、少々口が過ぎてしまいました。…曹操様のご命令でしたら、私は喜んで嫁ぎますわ。そう不安そうな顔をなさらないで下さい」


政略結婚は武家の女に生まれた宿命だ。不細工でも禿げでも助平でも、笑顔で嫁いでいきます。私の決意とは裏腹に父の隣で母が盛大に泣いていた。それを見て強がりが砕けて一緒になって泣いたことはあまり言いたくはない。


***


一回り以上も年上だと聞く。少し想像してみた。
ぶくぶくと膨れた身体に、脂ぎった顔、髭も汚く伸びっぱなしで笑顔は酷く醜い。近寄れば祖父と同じ臭いがして声はべちょべちょと下品。
とんでもなく恐ろしい人物が浮き上がり、ぞっとして冷や汗をかいてしまった。・・・得体の知れない男に嫁ぎたくない。自分の未来に諦めはついたと思っていたが、そうではなかったらしい。土壇場でふつふつと湧き上がる嫌悪がホウ徳様が待っておられるという部屋に向かう足取りを重くする。
そんな私の気持ちを分かってくれているのか、家から付いて来た女中は優しく背中を撫でてくれた。


「失礼致します。」


武家の女に相応しい振る舞いを、と心がけて部屋に入れば、初めまして、と優しい笑顔が向けられる。爽やかで、醸し出す雰囲気が温かい。

「どうぞ、お入りくだされ、」とホウ徳様に言われるまで、私はホウ徳様に見入ってしまっていた。慌てて取り繕い笑みを浮かべて席に着けば、ホウ徳様は言い辛そうに口を開いた。


「此度は突然のことで驚かれただろうと申し訳なく思っております。…某のような他国から参った得体の知れぬ年寄と一緒になると決断するなど、大変な御覚悟が必要であっただろうと存じます」


申し訳ない、申し訳ない、あまりにホウ徳様が繰り返すものだから、居心地が悪くなる。

「その…もし殿に好いた男がいらっしゃるのならば、遠慮なくこの縁談を御断りくだされ。殿には某から申しておきます故」

温かい雰囲気に絆されていた心が、すっと冷気を纏うのが分かった。曹操様の意向に物申すなど、降将だというのに無礼極まりない。・・・それ以上に、ホウ徳様がこの縁談に乗り気でないことが伺え知れてきゅ、と胸が痛くなる。

「・・・降って来たばかりで殿のご厚意を無下にするなど、今後のあなた様の身が危ぶまれるのではありませんか。 …私とて、もちろんこの縁談は本意ではありませんわ。しかし、私の気持ちなど関係ないのです。曹操様のご命令ならば、私はどんな方の元へでも嫁ぎましょう。曹操様に古くよりお仕えする家臣の娘として、当然の心構えでございます。あまり武家の女を侮辱なさらぬよう」

馬鹿にしないで!と生意気にもホウ徳様に、強気な視線を向けてしまった。 驚いたような目線が向けられる。この空気、どうすれば良いの…と表情はそのままで頭の中は大荒れだった。数分の沈黙の後、ホウ徳様が「無礼な物言いを御許し下され…殿のご覚悟、しかと受け止めましたぞ」と力強く言うものだから、その瞳に惹かれて更に胸がツンと痛くなる。


「い、いえ…私も、気が張っていたものですからつい…生意気な口を利いてしまって申し訳ありません…」


さっきまでの威勢はどこへやら。恥ずかしい程態度をころっと変えた自分が居た堪れなくて、俯き加減になってしまったが、優しい視線を私に向けたホウ徳様が見えて、頬が熱くなる。

それからというもの、ホウ徳様は私の質問にも丁寧に答えて下さって、偶に笑顔を向けてくださったりもして、極めつけは「殿は某には勿体無い程のお方です」って。
即座に、「それは私の台詞ですわ。お相手がホウ徳様で、本当に良かったです」と返してしまう辺り、私はもう、ホウ徳様に完全に落ちてしまっている。

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