純路  




明らかに殴られた跡だった。張遼は、伏せ目がちに走り去る女を呼びとめて、まじまじとその顔を見た。右の頬を腫らした女は、「その頬は如何したのだ」と尋ねる張遼に言葉を濁した。

「いつものことです。将軍様が心配なさるような理由では」
「我が軍に女性に暴力を振るうような輩が居ようとは、許せぬ話。そのような行為が常とあれば尚更に」
「……もう、慣れました。青く色が変わっているところもあって見た目は酷いですが、そこまでの痛みは感じません」
「痛みの問題ではない!」

張遼はつい熱くなって、大声を出してしまった。女は驚いて、肩をびくりと震えさせた。けれどそれは一瞬で、張遼を落ちつかせるように努めて冷静に、淡々と言葉を発する。

「私は、董卓様が妾、でございます。この右頬は、董卓様を満足させることの出来なかった私の不出来によるものです。将軍様、どうぞ、捨て置きくださいませ」
「……殿の……」

思わぬところで董卓と名前を出されて、張遼は狼狽えた。 途端言葉を上手く紡げなくなった張遼に、は優しく微笑んだ。

「この腫れた頬で何人もの女官と擦れ違いましたが、みな、憐れんだ視線を向けるばかり。優しくお声をかけて下さり、感謝しています」

感謝などと…張遼は皺を深めるしかなかった。女性に暴力を振るうなど、許し難い。が、相手が自分が仕える殿となれば、張遼に出来ることは何もない。相当強く張られたようで、頬は赤く腫れあがっている。ぎゅ、っと拳を握った。

「私よりあなたの方がつらそうなお顔をしていますよ。心お優しい方なのですね。心が救われます、ありがとう」

そう言って、は心底嬉しそうに笑って、それからすぐに背を向けて去っていった。ぴん、と伸びた背筋がつくる、美しい立ち姿。張遼はその後ろ姿から目が離せなかった。





それからしばらく、は部屋に籠りきりだった。董卓に思い切り張られた頬はまだずきずきと痛む。頬だけではない。肌着の下のあんなところやこんなところも青黒く変色していた。
董卓には貂蝉という妻がいて、彼女を寵愛している為のように位の低い妾の出番はさほどない。ただ、貂蝉相手には出来ないあんなことやこんなことを強要してくるため、一度呼ばれるとはいつもこんな状態になってしまう。

、入ってもいいかしら」

涼しげな甘い声が部屋の外から聞こえた。

「貂蝉、入ってもいいけれど、私、酷い顔なの」
「……また董卓様に、」

貂蝉はいつもより少しだけ慌てたように部屋に入ってきて、の目の前に座った。 お付きの者も連れず、貂蝉はよくこの部屋に来る。ぎらぎらとした他の妾とは違い、と話していると落ちつくのだと貂蝉は言う。

「前回の董卓様は今までで一番酷かった。私ではなく、他の誰かへの怒りを私にぶつけているようで」
、思い出さなくていいのよ。ごめんなさい、とても怖かったでしょう」
「どうして貂蝉が謝るの。私が打たれるのはいつものことよ。私はそういう役目だから」
「いいえ、私の所為でもあるの。……お願い、よく話を聞いて。今日はこのことを伝えに来たの」

貂蝉は、辺りを気にしながらうんと小さな声で、董卓を討つ計画があるのだとに告げた。呂布という董卓の部下が謀反を起こすのだと。董卓の機嫌が悪いのは、その呂布の動きに不信感を抱いているからだと。

「……本当に?何だか突然過ぎて全然話についていけない…」
「董卓様はあの振舞いだもの、城の中には彼を疎ましく思っている者はたくさん居るのよ」

貂蝉は更に声を落とした。すぐそばにいるにも、所々聞き取れない程の声だった。董卓、振舞い、疎ましい。物騒な単語だった。

「私は呂布様と共にここを出ます」
「ここを出る……?」
、あなたには受け入れてくれる故郷はあるの?」

貂蝉の言葉に、の表情は無意識に曇る。 逃げ帰るところなどどこにもなかったからだ。

「故郷は董卓に焼かれたの。何も、誰も残ってない」

ぽつり、ぽつりと 抑揚の無い声だった。視線は宙を彷徨わせるばかり。貂蝉がかける言葉を探していると、はじっと貂蝉を見つめて、そして弱々しく笑った。

「貂蝉と、あなたの良い人が無事にここを出られるよう、心から祈ってるわ」

貂蝉には、その言葉が拒絶に近く思えた。捨て置いて、と言われているようで。 何も語らないが、ぎゅっと貂蝉を抱きしめる。最後のお別れのようだった。

「私のことは心配しないで。もうすぐお母様に逢えると思えば嬉しいぐらいよ」

場違いに明るい声だった。





貂蝉から謀反の話を聞いて数日。 あまりにも毎日が普通に過ぎていき、董卓を打つなどと大それたことが起こりそうな雰囲気は一切感じ取れなかった。朝餉も夕餉もいつも通り。
けれど、あれからの生活は少し変わった。 今までは部屋に籠りっぱなしだったのに、頻繁に外に出て庭を眺めるようになったし、今まで関わってこなかった女官たちとも少し話をするようになった。 無意識の内に、こんな囚われの生活のままで生涯を終えることに後悔を感じているのかもしれない。

その日も庭をぼんやりと眺めていたに、いつのまにか傍に来ていた張遼が声をかけた。

「右頬の腫れもだいぶ引きましたな」
「……将軍様。はい、もう強く押しても大丈夫」

ふわり、と笑顔を見せながら。ふと、 この心優しい将軍様は、貂蝉たちの味方なのだろうか。と不安が渦巻く。けれど、貂蝉を裏切ってしまうことになるかもしれず、こちらから確認をすることは憚られた。

「その右手の痣も……?」
「将軍さま、いいんです。どんな傷でも時間が経てば治ります」

見えている傷なんて、たいしたことはない。サッと右手を隠してしまったを見て、張遼は話題を変えた。

「……あなたはいつからこの城に?」
「いつから……あまり考えないようにしているのです、ですから、正確ではないけれど、4年ほどになるかと」
「私は3年前に呂布殿とここに」

張遼の言葉に、はほっとした。呂布と共に降ったということは、呂布と貂蝉の協力者で共にあの計画を成す人だと思ったからだ。

「そうでしたか。呂布殿はお強い方だと耳にしたことがあります。……ご武運を、お祈りしております」

張遼はじっとを見つめた。

「では、私はこれで」

は張遼の視線には答えず、すぐに背を向けて去っていった。





叫び声、泣き声、怒鳴り声。 いろんな声でもう城の中はぐちゃぐちゃだった。金属音、爆発音、振動、パチパチと火が燃える音…… は泣いていた。逃げ延びた所で行くあてもない。死にたいと思ったことは何度もあったのに、いざ死を身近に感じると怖いのだ。 部屋の外に出てみたが、壁についた血飛沫が恐ろしくてあっという間に部屋に逃げ帰り、隅の方に蹲り、ひとりで震えていた。

足音が近づいてくる。ぎゃあああと耳を劈くような叫び声も近い。 は顔を上げることができなかった。
ばあん、と乱暴に戸が開いた音がした。隣の部屋ではない、近づく足音はすぐ目の前から聞こえてくる。はまだ顔を上げられない。 地にひれ伏すように、は小さく、小さく、「痛くしないで、下さい、最期のお願いです、どうか……」と呪文のようにそればかりを吐き出した。


殿」


届いたのは見知った将軍の声だった。 驚いてゆっくり顔を上げると、すぐに手を掴まれて抱き抱えられた。

「将軍様?!何を……」
「一緒に来て頂きたい」
殺す気はないのだと知ると、は弾かれたように暴れ、叫んだ。


「将軍様、いや、お願い、捨て置いて、死なせて!」
「否」


それからは何度が叫ぼうと、どれだけ暴れても張遼は決して口を開かなかった。を抱きかかえる手の力強さも変わらない。

「私には行くところがないの!生き延びてもまたどこかで今までと同じ扱いを受けることになる!だからお願い、私を助けないで!!」
心からの声だった。しかし、張遼は何も言わない。

「もう捕虜として生きるのはたくさん!蔑んだ視線を向けられるのも、殴られるのも、もう、もうたくさんだわ!」

何を言おうと張遼の手は緩まない。は観念したように脱力し、嗚咽ばかりを漏らした。「大丈夫です」と言葉が聞こえたような気がして、「何を根拠に!」と声を上げたが、周りの騒音にかき消されてきっと聞こえてはないだろう。張遼が行く先に、呂布が居る、貂蝉もいる、謀反は成功したのだ。董卓の城が、4年も生活してきた場所が燃えている。近くで燃えているのに、不思議と熱さは感じない。それよりも、何故だか視界が揺れて……・・・



▼▼▼



殿、殿!」

体を大きく揺らされて、は目を覚ました。 目の前の張遼は、立派な髭を蓄えていた。夢の中の彼とは少し違う。皺も増えて、貫禄もある。

「嫌な夢でも?だいぶ魘されていたようだったが」
「…あなたと出会った頃の夢を見ていたのよ」
「……まだ董卓はあなたを離さぬか」

目の前で苦い顔をする張遼は、の夫で、 あの曹操から認められて今は合肥を任されている。

「あれからいろいろあったけれど、まさか魏の大将軍になるなんて……」

横目で張遼を見ると、まだ苦い顔のまま。 は、張遼の頬に手のひらをあてそっとこちらに向かせると、優しく優しく口付けをした。


「董卓の夢じゃないわ、私はあなたに救われる夢を見ていたの。ありがとう、大好きよ」
inserted by FC2 system